若き畦地梅太郎の仲間たち―
1930-40年代の日本の版画 【終了しました】
展覧会概要
7月6日から9月23日まで企画展示室で開催する「畦地梅太郎・わたしの山男」展の関連企画として、ミニ企画「若き畦地梅太郎の仲間たち―1930-40年代の日本の版画」を開催します。
Ⅰ 先輩版画家に学ぶ!
1902年(明治35)に愛媛県宇和島に生まれ育った畦地は、上京して1926年(大正15)に内閣印刷局活版課に就職します。そこで鉛版(紙型から作られる鉛合金製の印刷用の板)を利用した版画を制作し、版画家の平塚運一の賞賛を得て本格的に版画制作に乗り出しました。翌1927年(昭和2)には、当時最も大きな版画団体であった日本創作版画協会の展覧会に入選し、それを機に恩地孝四郎の知遇を得ます。その後内閣印刷局を辞め、平塚、恩地、前川千帆らの作品の摺りを手伝ったり、さまざまな印刷物のカットを制作したりして生活費を捻出し、本格的に版画家としての歩みを始めます。
Ⅱ 国画会の仲間たち
版画の公募展への出品をはじめた畦地は、1928年(昭和3)に平塚が出品していた国画創作協会の展覧会へ初出品します。その後も、改組して国画会となったこの美術団体展への出品を続け、1937年(昭和12)の第12回展で国画奨学賞を受賞(1940年にも同賞を受賞)、1944年(昭和19)には会員となりました。
このセクションでは、畦地より早い時期に国画会の会員となった平塚(1930年に会員)、川西英(1934年)、恩地(1936年)、棟方志功(1937年)、ワルワーラ・ブブノワ(1937年)、川上澄生(1942年)に加え、畦地と同時期に、さらに戦後1940年代に国画会会員となった版画家たちの作品を展示します。
Ⅲ 版画家との交流―1930年代を中心に
このセクションでは、畦地が同人として参加した『版』と『きつつき』という版画誌、そして大震災から復興した1930年代の新東京の内面を個性的な作風で表現した版画家の作品を中心に展示します。
そのうち藤牧義夫による《ENOKEN之図》には「贈 畦地兄」と筆書きされ、畦地との親交がうかがえます。東京の街中を放浪しながら制作した谷中安規とは、『白と黒』や『版藝術』などの版画誌を編集発行した料治熊太の家で出会っています。グループ「新版画集団」のリーダーだった小野忠重とは、1936年の日本版画協会展の際に知り合っています。小林朝治は長野県須坂市の眼科医で、版画家としても活動し、畦地の作品を収集していました。なお、『版』同人の坂口右左視は、木版画も制作した春陽会出品の画家です。
Ⅳ 一木会の仲間―『一木集』Ⅰ(1944年)より
一木会(いちもくかい)は、恩地孝四郎の自宅に集まり、毎月第1木曜日に研究会を開いた畦地ら若手版画家たちのグループで、1939年に始まり、1944年から1950年までに全6集の版画集を発行しました。本セクションには第1集に収められた作品の一部を展示します。
以上4つのセクションから、若き畦地梅太郎の版画家たちとの交流の足跡を紹介します。その足跡が、1930-40年代の日本の重要な版画史形成につながったといえるでしょう。
畦地梅太郎(あぜち・うめたろう、1902-1999)
大野原遠望 1940
木版 29×40.7cm 国画会第15回展出品
藤牧義夫(ふじまき・よしお、1911-1935行方不明)
ENOKEN之図 1934
木版 35×34cm
坂口右左視(さかぐち・うさみ、1895-1937)
おどり(版画誌『版』1号)1927.12
木版 16.5×11.6cm(冊子29.6×20.8cm)
展覧会情報
会期 | 2019年6月26日(土)~9月23日(月・祝) |
---|---|
観覧料 | 無料 |
- 出品作品リスト PDF[370KB]